*忘れないうちに
 前記事に保存した対話の中で、論点になったものについて、忘れないうちに自分の考えをメモしておきたい。


*神の定義
 まず一つ目は神の定義についてである。これには下のようにいろいろあると思う。
  • 高級諸神霊(諸天善神など)
  • 山川草木に宿る精霊
  • 先祖の霊(祖霊)
  • 宇宙を統べる法則
  • 絶対神(唯一神)
  • 生き神様(教祖など)
  • その他
 個人的なことながら、自分は無宗教の家で育ったので、幼少年期は神や信仰についてさして考えることはなく、神社仏閣に祀られているのが神様なんだろうと思っていた。山川草木、先祖の霊などに手を合わせることにもさして違和感はなかった。
 青年時代になると、HSに傾倒するようになり、宇宙を統べる法則が神だと説かれればそのように考え、教祖を神として信仰すべきことが説かれればそのように考えるようになった。
 しかしHS退会後はそれらの影響は薄れ、近年は人知を超えた超越者を神と考えるようになってきている。ただこれは頭ではそのように考えているということであって、現実生活では幼少年期の感覚に戻ってきており、諸天善神、山川草木、先祖の霊などを神様または神様に準ずる存在として拝むことにさして抵抗はない。


*超越者
 「無」は言葉では表現できないという考えがある。「何にも無いことを表現しようとする場合、『無』と言うと、そこに無が有ることになるので、『無が無い』と言わなければならない。でもそれだと、無が無い状態が有ることになるので、『無が無いが無い』と言わなければならない。でもそれだと…」という具合に、延々つづくことになってしまうというのだ。
 「超越者」にも、これと同様の問題が有る。「人知を超えた超越者」という表現は、人知を超えたと言いながら、しっかり認知していることを示しているからである。だから、超越者を適切に表現しようとすれば、無の表現と同じようなことになってしまう。
 「人知を超えた超越者」→「『人知を超えた超越者』を超えた超越者』→「『人知を超えた超越者を超えた超越者』を超えた超越者…」という風にだ。
 この辺りのことは、言語表現の限界ということなのだろう。


*超越者と信仰
 上の問題を読めばおよその見当がつくように、超越者を神とすれば、信仰は不可能であり、無意味とされることになる。人知を超越しているということは、人にはその名を知ることはできず、想像することもできず、信仰の対象として思いを向けることもできないということだからである。
 ただ信仰は不可能としても、それによって自己の進むべき方向は定めらる。
 たとえば、キリスト教には否定神学というものがあるという。「神は~である」というのではなく、「神は~ではない」という風に、神でないものを否定していくことで神を探究しようとするものらしい。
 また禅宗には「仏に逢うては仏を殺せ。祖に逢うては祖を殺せ。羅漢に逢うては羅漢を殺せ」という言葉が伝わっている。定説とは異なる解釈になってしまうかもしれないが、これは「認知したものは全て神ではないから即、退けよ」という意味もあるかもしれぬ。
 要は、神は超越者だとすることは、「これが神である」という信仰ではなくて、「神とは何か」という探究を志すことなのだと思う。


*信仰と探究の相違点
 信仰者は上に書いたように「これが神である」と言い張ることが多い。たとえば、このような論調はよくあるだろう。「私が信じているのは正しい神である」「私には正しい神を見抜く判断力がある」「『これが神である』という私の判断は正しい」
 一方、探究とは何かといえば、「これは本当に神だろうか」と疑問を持つことである。「これが神だ」という自己の判断を過信せず、謙虚さを維持することである。
 自分は信仰者であるよりは、探求者である方が性に合っていると思う。


*神の存在
 神についての議論では、「神とは何か」というテーマ以外に、「神は存在するか、しないか」という議論もあるが、これは神の定義次第では意味のない議論になる。
 たとえば神はこの世ならざるものであり、見えも触れもせず、体積も重さもないとしたならば、「存在するか、しないか」という三次元的唯物的な判断基準ではかれるものではなく、そんなことを問うても無駄だということになる。
 ましてや、この世もあの世も、物質も霊も、存在も非存在も…全てを超えた超越者を、有る無しで判定しようとするのは無茶なことだ。有無を超えているものを有無で判断できるわけもない。
 正直なところ、「神は存在する」「霊は存在する」ということにこだわるのは、唯物的な思考に染まり、この世を超えた世界についてよく分かっていない証拠ではないかと思う。


*神を感じたとしても…
 巷には、神を感じると、即、神は存在すると思い込む人がいる。実を言えば自分もそのクチである。神の臨在は現実以上にリアルなので、ついそう結論付けてしまうのである。
 しかし実際には、自分が神を感じたからといって、それが妄想でも、錯覚でもないとは言い切れず、そこに神が存在した証拠にはならないのだから仕方がない。人にできるのは、神を感じたと思うことまでで、そこから進んで神はこういうものだとか、絶対に存在するとか、そこまで言い切ることはできないのだ。
 個人的に心の中で確信を持つことは自由ではあろうが、確実な証拠もなしにそれを他人に向かって主張し、受け入れさせようとするなら、それはいささか無責任な行為であるとお思う。


*誰もが無神論者である
 とある無神論者はキリスト教信者を皮肉ってこう言っている。
「誰でも、自分の信じていない宗教については無神論者である。私は、君たちより信じない神がたった一つ多いだけなのだ」と。
 つまりキリスト教信者は、自分たちの唯一の神だけを信じて、他宗教の神々は存在しないとしているが、無神論者の自分はそれに加えて、キリスト教の唯一の神も信じていないというだけのことだというのだ。
 こうしてみると、「無神論者」というのは相対的なものであって、立場によって変わるものだということがよく分かる。どんなに熱心な宗教信者であっても、もし信じない宗教があるならば、その宗教については無神論者なのである。
 無神論者にしても、信仰者にしても、そういう分類は特定の立ち位置から勝手にレッテルを貼っているだけのことであり、さして意味のないことだと思う。