*大川隆法の人間観
 『メシアの法』の中で、大川隆法総裁は、人間は自己中であって、非常に貪欲なものだとしていた。
 動物的生存と言いましたけれども、私もよく「自己中、自己中心的になるな」という教えは説いているのです。なぜかというと、「自己中である」ということは、動物でも人間でも、自然体でなれることだからです。この世に生まれ落ちて育ったら、どうしてもそうなるのです。食べ物は手に入れたいし、それから自分の命は惜しいし、自分が死ぬぐらいなら、ほかの人に死んでほしいと思うし、食べ物が二人に一つしかないなら、自分のものにしたいと思うし、家も欲しいし、職業も欲しいし、いろいろなものが欲しいわけです。
 これは、当たり前としては当たり前のことなのですが、本能的に必ずそうなります。動物的なものからの延長上でも、そうなってはきます。 

(『メシアの法』大川隆法著、幸福の科学出版、2022年、p.271)
 前述したように、自己中になることは誰にでもできます。生まれつき、なれるのです。昆虫も動物もみんな自己中です。自分中心に餌を取り、自分中心に死を免れることばかり考えています。
 人間だってそうです。みんな、基本的には、自己中に判断するようになっています。
 
(同上、p.318)
 こうしてみると、大川隆法総裁は性悪説を支持する立場のようだ。


*性悪説と信仰
 ちなみに、信仰の必要性について、性悪説の立場から説くと、このようになるだろう。
 「人は自己中心的で、利害損得にこだわるものだ。したがって人に善を選ばせるには、善いことをしたら天国、悪いことをしたら地獄というアメとムチが必要になる」云々。


*性善説と信仰
 一方、信仰に性善説を絡めて話すとこうなるだろう。
 「人の本質は善であるから、自由な環境では、ごく自然に善を指向することになる。したがって人が善を選ぶには、自由があればいいのであって、アメとムチ(天国と地獄)は必要ない」


*HSの立場
 HS教義では、人は神の子(仏の子)であるとして、性善説の立場に立っているのではあるが、大川隆法は上のように人は自己中なものだとしていること、「人は信仰がなければ…天国地獄を信じていなければ…悪に流れる」という旨の発言を繰り返していること等からすると、性善説は建前で、本音は性悪説を支持しているということなのだろう。


*疑問解決
 「HSは人は神の子だとして性善説の立場に立ちながら、人は天国地獄を信じないと悪に流れるとしているのは矛盾している」と長らく疑問だったのだが、とりあえずこれで疑問解決である。


*利他的利己
 最後に自分の考えを述べておくと、私は、人にしろ、動物にしろ、すべて自己中心的だと決めつけることはできないと思っている。たとえば、捕食動物から雛を守るために自らがオトリになる親鳥、スズメバチを退治するために自らが犠牲になることもいとわないミツバチ、群れの仲間を轢き殺した車に向けて、いっせいに石を投げたサルたち、大飢饉の際に自らの肉を子に与える親、家族の重荷にならないために自死する病者…動物にしろ、人間にしろ、このような利他的行動の例は多々ある。
 見方によっては、これらについて、すべて本能による行動にすぎないとか、その動機の中に利己心が皆無ではないとはいえない等と言うこともできなくはないが、それでもそれらの行動自体の利他性は否定できないだろう。
 そういうわけで私は、人は総裁が言うほどには自己中ではないと思うし、総裁はよくもそこまで人の善性を信じないことができるものだなと不思議に感じる次第である。





◇◆ 追記 2022.10.29 ◆◇


*もう一つ
 『秘密の法』にも、総裁の人間観が語られている箇所があったので、こちらも保存しておきたい。
 やはり、どのような人にも、心のなかに利害関係というか、損得勘定があるので、修行をしていること、仏法真理の勉強をしていること、あるいは、学業や真理のために打ち込んでいることが、相手の利害と一致しているときはうまくいくと思います。ただ、それが一致しなくなることもあるでしょう。そういうときに大きく崩れてくることはあります。

(『秘密の法』大川隆法著、幸福の科学出版、2021年、p.184)
 今まで自分を応援してくれていたような人が急に手のひらを返したようになるというのは本当に残念なことですが、「自分は純粋な信仰者だ」と思っているような人であっても、欲を持っているのです。

(同上、p.187)
 総裁は以上のように述べつつ、その実例として、HSの立ち上げの時には大きな貢献をしたが、その後、離れていった人物のことを話している。この人物はHSの中心にいたときは張り切っていたものの、教団が発展し、新しい会員が増えるにつれて、自身の地位と影響力が低下してくると、名誉欲などを満たせなくなり、そのために去って行ったのだろうと…。
 私から見ると、その人物は「総裁は真理に背き、道から外れた。損得勘定からすれば、それでも総裁から離れない方がいいかもしれないが、自分にはそれはできない。自分は真理にのみ従う」と考えて去ったのではないかと思うのだが、総裁はあくまで自分は正しいと考えているので、去る人がいれば、その人は真理に従うより、己の欲望に流されたという結論になるのだろう。
 総裁は、性善説を説く宗教家にしては、ずいぶんと殺伐とした人間観を語っていることに違和感があったのだが、要は、総裁は自分は絶対に正しいと考えているので、自分に従わない人たちに対する見方が厳しくならざるをえないということかもしれない。「私は正しいことをしている。それなのに信じてついて来ないのは、彼らが善悪を知らず、欲にまみれているからだ」という風に。
 結局、人に優しく、温和な人間観を持とうとするなら、自分は絶対に正しいという思い上がりは捨てて、謙虚になることが大切だということなんだろう。実際、謙虚な人は、人に優しく、温和な人生観を持っていて、傲慢な人は人に厳しく、荒んだ人間観を持っていることが多いのも、これが理由かもしれない。